たまちゃん!たまちゃん!久しぶりに偉人の話聞いてやるよ。あくしろよ。
突然来たと思ったらなんだよその言い草は!?
聞きたくないなら聞かなくていいよ!
だってたまちゃんが歴史を語るときいつも得意げなんだもん。
ほらほら早く!できるだけスッゲー人の話でお願い!
だから嫌だって言っているだろう!それにスッゲー人なんていくらでもいる。せめてどんな時代とか職種とかそんな要望をしたまえ!
要望なんてわかんないよ!じゃあ職業は…王様だ!…あ。ホームレスでもいいよ。
だから何でそんなに両極端なんだい?その二つにどんな共通点が…。
一人だけいたな。ホームレスで王様。正確には皇帝だが。
ホームレスで皇帝!?面白そうじゃん教えてよ!
…仕方ない。なんにせよ君が歴史に興味を持ったのは良い事だ。
じゃあ今回は『アメリカ合衆国皇帝・ノートン1世』について話をしよう。
ジョシュア・エイブラハム・ノートン
〇大統領制のアメリカ合衆国に皇帝とは?
皇帝。それは王政と同じく、王や皇帝が国を治めることで成り立つ制度。
アメリカ合衆国は1776年に独立宣言をしてから現在に至るまで、国民が選挙で代表者を決める大統領制を敷いており、王や皇帝が存在した歴史は一つもない。
しかしたった一人だけ、「紛れもなくアメリカ合衆国の皇帝である」と呼ばれた男がいた。
〇吹き飛んだ財産
1819年イギリスの資産家の下で生まれたノートンは、裕福な家庭ですくすくと育つ。
幼い頃から英才教育を受け、ビジネスの才覚も持っていたノートンは、アメリカに渡った後に不動産投資などで資産を大きく増やす。
しかし、米の買い占めを行ったものの、米の価格が大暴落したために一瞬にして破産する。
現在の価値で60億円以上失ったとかなんとか
出だしからもうヤバい!悪い意味で。
〇精神崩壊による妄想癖
ノートンはこの時のショックで発狂。現実逃避のために妄想癖を発症する。
『自分はアメリカ合衆国の皇帝なんだ』……と
あれれ~。これ偉人紹介だよね?ヤバい人紹介じゃないよね?
そしてノートンが次にとった行動は、サンフランシスコの新聞社に手紙を送ることだった。
内容は以下である。
大多数の合衆国市民の懇請により、喜望峰なるあるゴア湾より来たりて過去九年と十ヶ月の間サンフランシスコに在りし余、ジョシュア・ノートンはこの合衆国の皇帝たる事を自ら宣言し布告す。
引用:Wikipedia
上記の内容に加えて新聞各社にノートンが皇帝に即位したことを記事にするようにとの命令も下した。
は?何言ってんの?これただの痛い人じゃないの?
当然のように新聞各社は取り合うことはしなかったのだが、「サンフランシスコ・コール紙」がこの手紙をユーモアで紙面に載せると、これを面白がった市民達がこぞって新聞を購入。
それを見ていた他の新聞社もノートンを記事にし始めたことで、ノートンは自称皇帝としての地位を確立していった。
ノートン1世の勅令
それからノートンは新聞を通して『勅令』を出していく。
・勅令①アメリカ議会の廃止
国の腐敗の原因は議会にあるとしたノートンはアメリカ議会の廃止を命じるが、当然そんな言葉に政府が取り合うはずはない。
しかし、怯まないノートンは(だって自分は本当に皇帝だと思い込んでいるわけだから)アメリカ陸軍をアメリカ帝国軍と勝手に呼称し、「議会は反逆者である」として鎮圧を命令。…勿論無視される。
・勅令②犯罪率の抑制
犯罪が多いのは町が暗いせいだと決めつけたノートン。
今度は町に街頭を増やすよう命令。
・勅令③奴隷を開放せよ
奴隷制度は人道に反すると考えたノートンは解放を命令。
(リンカーンより早い)
・勅令④クリスマスは町を華やかに装飾せよ
クリスマスは盛大に行うべきだと考えたノートンが出した命令。
なんとこれは市議会にまで話が通り、実行に移されることとなった。
※クリスマスツリーにイルミネーションを施すことになった歴史的事件。
・勅令⑤サンフランシスコとオークランドを繋ぐ橋を建設せよ
当時は車などほとんど普及していなかったため、取り入れられることはなかったが、ノートンの死後60年程後になって渋滞によって町に車が溢れかえったがために、ノートンの言ったとおりに橋が建設されることとなった。
※サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ(世界で2番目に長い橋)
・勅令⑥海底トンネルを開通せよ
これも橋と同じで当時は無視されたが、さらに人の往来が増えた現代では橋だけでは足りなくなり、地下鉄が開通された。
ちょっと予言者めいてるよね。
本気なのか冗談なのか…というかクリスマスツリーの装飾はこの人が始まりかよ!
愛されたノートン
〇皇帝としての毎日
ノートンの生活は決して裕福な物ではなかった。
しかしその質素な生活と、それでも皇帝であるかのように振舞うたたずまいと、国民のためを思って出される勅令によって、彼は愛される存在となる。
- 毎日同じボロボロの軍服を着ている。
- 日に5ドル程の格安宿を宮殿と呼び、寒さを凌いでいた。
- 餌目的で付いてくる野良犬「ラザルス」と「ブマー」の二頭を家臣として引き連れいた。
- 毎日新聞社に簡単な勅令を出していた。
- 毎日サンフランシスコの町を歩き回って、お金が足りなくなると道行く人達から税金として僅かなお金(5セント程)を徴収。※しかし拒否する人や嫌がる人からは決して取らず、握手をして立ち去った。
〇市民の支持
ある日警察官がノートンを精神異常者として収容してしまう。
これに対して市民は大激怒。なんと「ノートン釈放デモ」まで行われれ、新聞各社までもがこぞって警察を非難。
即座にノートンは釈放され、警察署長による謝罪が行われた。
しかしノートンが快く警察を許したことで、国民の警察へのヘイトも沈下。
助けられた警察はこれ以降、町でノートンを見かけると敬礼をするようになったとか。
いよいよ警察まで従えちまったぜ。
〇観光地の有名人
ノートンを一目見ようと押し寄せる観光客によってサンフランシスコの町は大いに繁盛。
町のレストランは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」という看板を出させてもらうことを条件にノートンの食事代を無料し、市がノートンのために税金で新品の軍服を献上するなどした。
また、セントラルパシフィック鉄道の終身無料パスも持っていた。
※側近の犬であるラザルスとバマーの二匹にも『市の自由権』というものが与えられた。
これは二匹がネズミ捕りの名人であったことから、「どこでも入れるネズミ捕り専門犬」としての権利であったという。
ラザルスとバマーはこれを活用して酒場などにふらふらと入店し、市民の好意による食事にありついていた。
ただ飯…だと!?
〇ノートン紙幣
ノートンが本気で生活に困った時、ノートンは独自のお札を発行した。
何を言っているのかわからないとは思うが、これはマジである。
ノートンから依頼を受けた印刷屋が喜んで承諾し、地域の銀行や企業、金融業者までもが使用を認めたのだ。
具体的には、カリフォルニア銀行はノートン紙幣の預け入れを承認し行っていた。
しかしこれには「偽造通貨ではないのか?」との声も上がる。
結果から言えばノートンは無罪となった。
理由は様々あるようだが、「政府が発行したものとそもそも似ていない」などのことが要因だったという。
※余談だが、現在ノートン紙幣には超プレミア品として、オークションで高値で取引されている。
またでたよ。地域の人達もおかしくなってない?
史上最も優しい皇帝
〇移民と現地人の衝突
合衆国に移民が増えてくると、移民と現地人との間で軋轢が生まれた。
移民に仕事を奪われたとして、現地人が暴徒化し移民をリンチするなどの暴動が発生したのだ。
これを見かねたノートンは両者の間に割って入り、頭を下げながら神に祈りを捧げ続けた。
危険を顧みることなく弱者の盾となったノートンの姿に、暴徒達は拳を治め暴動を解散。
これは歴史上で初めて『祈りのみで暴動を鎮圧した唯一瞬間』であったとされている。
〇南北戦争を回避せよ
アメリカを二つに分けた大戦争。学校でも一度は習うこの一件は、奴隷などの複雑な理由からなるものであった。
だが理由は何にせよ、正義がどちらにあるにせよ、「アメリカ人同士で戦争を起こしてはならない」と考えたノートンは、北部代表の『エイブラハム・リンカーン』と南部代表の『ジェファーソン・デイヴィス』に、「話し合いの場を設けるから戦争以外で解決せよ』との手紙を送った。
エイブラハム・リンカーン。後のアメリカ合衆国の大統領だね。
なんとこの手紙に対して両者からは「話し合いに向かおう」との返信が返された。
えっ?従ったの?アメリカのトップ二人が?ホームレスが南北戦争止めちゃうの?
すぐさま会合の場をセッティングしたノートン。
しかし当日になってリンカーンは「急用ができてしまった」との理由から、ジェファーソンは「皇帝に会うために着ていく服がない」との理由で謝罪とともに会合拒否の手紙が送られてくることとなった。
結果南北戦争を回避することはできず、南北合わせて246万の兵力が動員され、約50万人という戦死者を出すこととなってしまった。
※これはアメリカ戦役史上最悪の死者数とされている。
結局はノートンの危惧した通り、最悪な結末を迎えてしまった。
しかし二人のトップが無視できない程に、この時のアメリカでノートンの存在は大きなものになっていたんだ。
ジョシュアノートンここに眠る
〇その他ノートンの逸話
- 恋した女性にラブレターを送るも丁重に断られる
- 行政からの相談を持ち掛けられる。
- 家臣のラザルスが消防車に轢かれて死んでしまった時は、大規模な葬儀が行われ、喪服期間まで設定された。
- もう一方のバマーが死んだときは、作家の「マーク・トウェイン」によって墓碑銘に
『年月を重ね、名誉を重ね、病を重ね、そしてシラミを重ねた』と刻まれた。 - 食糧難に苦しむ市民を見かねて行政に援助を申し出るが断られる。(ノートン紙幣なので当たり前)
※マーク・トウェインは面白い思考を持った皮肉屋で、魅力的な人物の一人だ。いずれ語ろうかと思うので楽しみにしていてくれたまえ。
〇皇帝の崩御
1880年1月8日。
講演会へと向かう道の途中でノートンは倒れた。
付近の警察官が駆け寄ってすぐさま病院へと搬送されたものの、ノートン陛下は既にこと切れていた。
死後、彼の住んでいた安宿に残されていたものは、ノートン紙幣5ドル50セントと彼が発狂する以前に無価値となった株券9万8000株のみだったという。
サンフランシスコ・クロニクル紙はフランス語で『Le Roi Est Mort』(王が亡くなった)との見出しを掲載した。
以下は記事の日本語訳である。
「みすぼらしい敷石の上で、月のない暗い夜、しのつく雨のなかで…神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世陛下が崩御された。」
引用元:サンフランシスコ・クロニクル紙
ノートンの葬儀は「皇帝にふさわしい葬儀を」との声によって盛大に行われた。
多くの市民が寄付を募り、巨額の葬儀資金が集められ、身分や人種に関係なく参加者が募られた。
アドヴェンド教会に数日間遺骨を安置し、社交界の婦人方が棺の上にシダとヒヤシンスの花を献じた。
追悼の行列は1万人を超え、埋葬式では3万人を超える参列者が集ったという。
ノートンの墓石には生前彼が好んで使っていた著名が刻まれている。
『ノートン1世合衆国皇帝 メキシコの庇護者』
終わりに
これがノートン1世だ。ただの自称皇帝が、最後には誰からも認められる皇帝となったのだ。
…偉大だった!終始おかしいことに変わりはなかったけど、本気で人を愛し愛されていたことは凄くよくわかった。
君にしてはカッコいい言い回しをするじゃないか。
ただその通りで、ノートンの行動は本当に市民のためになることが多かったんだ。だからこそ亡くなった際には、新聞各社からも沢山の追悼文が掲載されることとなったわけだ。
うん。面白かったよ。最初はただ面白かっただけだけど、最後には真剣に聞いていられた。スゴイ人だった。
そう言ってもらえると嬉しいよ。
じゃあ最後に「ニューヨークタイムス」が掲載した追悼記事を引用して締め括りとしよう。
彼は誰からも奪わず、誰も殺さず、誰も追放しなかった。
彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は一人もいない。
引用元:ニューヨークタイムズ
コメント