やぁこんにちは。エージェントたまだ。
本日もいつものように本の紹介をしようと思うのだが、今回は少々趣向が違う。
これまで私は「人生を豊かにしてくれるであろう本」(独断と偏見にて)を紹介してきたわけだが、たまには「逆」をしてみるのも面白いと思ったわけだ。
良い面だけを知っていても対比ができなくなるからね。
題して「おススメしたくない本紹介シリーズ」。
そしてその栄えある第一回に輝いた一冊がこちら。はいドン!
諏内えみさんの 「育ちがいい人」だけが知っていること だ。
ネットでも賛否両論あったことで「いっちょ読んでみるか!」となった私が手を出した一冊であるのだが、まぁとりあえず個人的な感想を述べさせていただこうと思う。
しかし予め言っておくと、私はこの本に良い印象を抱いてはいないが、決して「悪い」とまでは思っていない。
確かに私はこの本の「良くない」と個人的に感じた部分を説明するが、ネット上では少々見当違いな否定意見も存在していたように思えたため、そのあたりについては賛同するつもりはない。
例えば「育ち」という表現について。
これについてネット上では「言葉の意味を変えるな」という意見があったが、私としてはこれは見当違いな意見だと思っている。
何故なら言葉とは感情と思考表現の手段であり、使い方によって形を変える性質を持っているためだ。
本書で言う「育ち」とは「生まれではなく、その佇まいや振る舞いのこと」であると語られている。
こういった自由な表現は、文学や芸術の分野ではよく見られるため、非難するポイントが少々ズレているといえる。(わかりづらいわけでもなく、ハッキリと書かれている。)
以上を踏まえた上で、なお読み続けてくれるというのであれば、是非ゆっくりしていってくれたまえ。
良い点:世渡りには使える面もある
私は世の物事に「完全な善」と「完全な悪」はないと思っている。
然るにこの一冊もまた、「良い」か「悪い」かのみで判断するのはナンセンスだ。
いくら良いとは言えない本とはいえ、全254ページもあるうちの全てがそういうわけではない。
ちゃんと学べるポイントはあると思っている。
それではまずは良い点2つを列挙するとしよう
- 内容通り振舞えば格好は良く見える
- 実際にこの通りに考えている人がいるという証拠
以上だ。
〇本書通りなら「格好」はよく見える。
本書の内容を肯定するわけではないが、本当に本書に忠実に振舞っていれば、少なくとも下品だと思われることはない。
実際、テーブルマナーを完璧に知っている人間は多くないし、言葉遣いや姿勢が悪い大人は数知れない。誰だって一度くらいは、他人の素行の悪さにうんざりしてことくらいあるだろう。
私だって電車やバスで大騒ぎをしている輩を見るとため息が出る時もある。
……まぁ待て。諸君らの言いたいことはわかる。色々と癪に障る部分があることもわかっている。それについては後で説明するから我慢してくれ。
現時点で良しとしているのはあくまで「見た目の格好の良さ」のみだ。それ以外にはない。
〇実際にこの本書に従っている人は必ずいる
2つ目の良い点。
それは本書を信じている人間が必ずいるということの証明となっていることだ。
おおよそ大多数の人間とは異なる思考で書かれたこの一冊だが、まぁまぁ売れている。
これは、私のように興味本位で手を出す人間以外にも、真に本書を信用している人間がいる証拠ともいえる。
つまるところそれは「取引先の相手」「顧客」「面接官」などなど、避けては通れない誰かがそういった思考を持っている可能性があるということだ。
いくら自分が「この本は間違っている」と思ってはいても、世の中の全員がそういうわけではない。
そう言った場合には相手に会わせて取り繕うことも必要になってくる。
「育ちがいい人」だけが知っていることを読めば、そういった人間の思考への理解が深まり、日常の地雷を踏んでしまう危険性を除去できる可能性が高まるということに繋がるのだ。
悪い点①「育ち」という言葉は反感を買う
さてとお待ちかねの時間がやってきた。
諸君もここからを楽しみにしていたのだろう?順を追って説明していくから目を離さないように。
〇「育ち」について
「育ちがよくなる」これは本書の謳い文句だ。
本記事の最初にて、私はこの部分を擁護したわけだが、それはあくまで「言葉の表現の自由」に関してのみである。
この言葉が適切かどうかは別問題だ。
そもそもこの「育ち」という言葉そのものが、非常にデリケートだ。
例え作者が差別的な意味を含まず使用したとしても、他人の言葉に対する印象は簡単には変えられない。
実際に貧困家庭で育った子供が、自制心の養われていない同学年の子供達に「育ちが悪い」などと言われている可能性があるかもしれない。
或いは、友達の親が「あの子は育ちが悪いから関わっちゃダメ」などと自身の子に言い聞かせ、学校でいじめられた経緯があるかもしれない。
もしもそうであったなら、その人にとって「育ち」という言葉に対する印象は最悪だ。
しかも「貧困問題」となれば毎日のように取りだたされている通り、決して少ない話ではない。
寧ろ世界規模の問題だ。
そんな言葉を安易に用いて「育ちがいい人だけが知っている」などと謳ってしまえば、そんな経験をしてきた方々の反感を買うことは目に見えている。
「表現は自由だが、他者への気遣いが足りなかった。」ということだ。
本来マナーとは相手を不快にさせないための物であると認識していたのだが、それを教えるはずのマナー講師が書いたとは思えない配慮のなさ。
非難が寄せらるのも無理はない。
悪い点②流石に言いがかりが過ぎる
〇それは言いがかりすぎないか?が多すぎる
- ジャンクフードは極力食べない
- 花やグリーンなどの植物を愛でる
- お料理をする
- 何十何円に執着しない
- プレゼントなどは「わざわざ感」を出して気持ちを伝える
- ハンバーガーの上品な食べ方
- いちごのショートケーキのいちごは中間で食べる
- お会計はカードで払うべき
などなど他にも沢山あるのだが、とりあえず幾つか書き出した。
……どうだろうか?
私は添乗員であることから多少はマナーも学んでいるが、別に詳しいという程ではない。
マナーテストなどを受けようものなら普通に失敗もするだろう。
しかしこれは…流石に引っかかる。
・ジャンクフードは極力食べない
つまりアメリカ人のほとんどは品がないということかな?
好物がハンバーガーだったらダメなのか?
大富豪ビル・ゲイツはマックが大好きらしいのだが、この言葉の通りなら彼は育ちが悪いのかい?
・花やグリーンなどの植物を愛でる
花にお淑やかなイメージがあるのは認めよう。
しかし「愛でなさい」はおかしいだろう。
よく「ファッションのためにチワワを飼う」という輩がいるが、この考えはあれと同じだ。
植物の命を大切にするかどうかは個人の自由だが、少なくとも「真に花が好きな人は命も大切にしている」。
そんな人と、「育ちのために仕方なく植物を愛でる」人が同じだと言えるだろうか?
寧ろ私には、「自身の見た目という利益のために命を利用する」この方法が下品に思えてならない。
・料理をする
…そんなに言うことはない。別にいいだろう。
その分他のことに力を使っている可能性もあるわけだから、「こうした方が良い」なんて断定するのはやめてほしい。
・何十何円に固執しない
これは「飲み会で割り勘する際の少額には気を使わない」という意味だ。
確かに私はそういうタイプだ。友人もそういった人間が多い。
しかし、これは「金」に対する思想の話だ。
「1円を笑う者は1円に泣く」の言葉の通り、それを重要視する人がいても不思議ではない。
「責任感が強く厳格である」と言い換えることもできるため、下品などと断定するのは失礼だ。
・プレゼントはわざわざ感を出して気持ちを伝える
いやこれこそ下品だろ!
もっとスマートに渡した方が品が良いと思うのは私だけだろうか?
折角プレゼントを渡す相手に気を使わせてどうするのだ?
プレゼントとは相手に喜んで貰うための物だろう?自分を引き立たせるためのダシに使うための物では本来ないはずだろう?
・ハンバーガーの上品な食べ方
いやいや、「ジャンクフードを極力食べるな」ってあれは?
・いちごのショートケーキのいちごは中間で食べるべき
そんなマナーあるわけない。
お店側だって美味しく食べてもらうために作っているのに、そんな堅苦しいことを言われたら困るだろう。
お客さんが最も美味しいと思える食べ方で食べてもらえることが一番だと考えている職人の方々は多いはずだ。
(「なら美味しいと思ったなら汚い食べ方をしても良いんだな」という意見が上がることも予想できるが、あくまで私はマナーが行き過ぎているという話をしているだけであり、全く必要がないとは主張していないことを留意してほしい。少なくともいちごをどのタイミングで食べても汚くはないだろう?)
・会計はカードで払うべき
近年では現金払いは少なくなった。政府も推奨している。
しかしマナーではないし、悪くもない。下品にも見えない。
自身のマイノリティを世間の常識の様に扱うのは最近の悪い風潮だ。
悪い点③対人関係で障害になる可能性がある
マナーを意識しすぎると「気取ったイメージを受ける人」が出てくる。
これを言うと「それはその人が間違っているから自分を貫けばよい」という返答が返ってくるかもしれないが、現実にはそうはいかない。
これは最初に記述したことと逆になるのだが、
自分の取引先や営業先の相手が、そういったタイプの人間である可能性もあるからだ。
商売とは損得もあるが、人間同士の感情によっても左右される。
どんなに自分が気品正しく振舞っていようとも相手の受け取り方次第では悪手に変わる。
この本はあまりに断定的に記載されているため、それに対応することができなくなってしまう危うさがあると感じた。
言ってしまうと「営業には向かない方法」だと言える。
- 若者言葉、流行り言葉を使わない
という一節が本書にはある。
若者言葉や流行り言葉とは、その時の世間で流行っている言葉だ。
新しい言葉であるのだから確かに「お上品」な言葉には指定されていないだろう。
しかし、流行りということはその時代に生きる人々に則した言葉である。
つまりは多くの人々が好む言葉だ。
アメリカの心理学者「ポール・エクマン」は、人にはそれぞれ好みの音や感覚があり、より自身の感覚に近い言葉に共感を覚える傾向にあると述べている。
これを正しいとするならば、相手に合わせた言葉を用いないということは好かれにくいコミュニケーションにとなり、反対に自身の好む言葉のみを推奨するということは他者の個性を無視した傲慢とも言えるということになる。
以上の事から、若者言葉や流行り言葉はコミュニケーションにおいて重要であると考えている私にとって、本書の意見には賛同できない。
悪い点④作者が自分を見えていない
この本を読んでいて最も呆れた一節は以下の2つだ。
- 育ちのいい人に知ったかぶりをする人はいない
- 「ご自分の当たり前は他人の当たり前とは限らない事を常に認識して振舞う俯瞰が必要です。」
①育ちのいい人に知ったかぶりをする人はいない
知ったかぶりとはいわば正当防衛だ。
心理学の世界では有名な「認知的不協和」を解消するために行われる人間の行動原理だ。
「私は本当はこうありたい。スゴイ人間なのだと思わせたい。」という願いと「しかし本当の自分は弱い。」というコンプレックスの差から生まれる自己防衛の手段と言える。
認知的不協和は自身の犯罪を正当化するためにも用いられるため、世間では悪い印象が目立つ。
しかし、実際は「失敗から人間を立ち直らせる」や「自身を勇気づける」などということにも役立っており、なくてはならない行動原理の一つであるのだ。
もしも私が本当に全く知ったかぶりをしない人間と会ったなら、気味が悪いので早々にお暇させていただくだろう。
②ご自分の当たり前は他人の当たり前とは限らない事を常に認識して振舞う俯瞰が必要です。
これは本書にある一節なのだが。
流石にブーメランが過ぎる。
見事なダブルスタンダード。(別にダブルスタンダードが悪いとは言わない。皆なにかしらある)
この本自体が作者の主観による決めつけで書かれており、
かつ「こうすべきである」「こういう人が育ちがいい人です」などという断言口調が大部分なのだ。
近年では「相手は選ぶべき」「こういう人としか関わらなくてよい」などという風潮が高まっているため、こうした尖った意見が出てくることもわかるのだが、それができるのは一握りの富裕層であり、人口の大半を占める中間層以下の人間には、仕事がある以上無理な話だ。
社会には自身の尺度では測れない様々な人格を持った人々がいる。
小さなコミュニティの中で培われた常識やマナーが意味をなさない世界はいくらでもあるのだ。
まとめ
時に、最近はCA(キャビンアテンダント)からマナー講師になる方が多いと聞く。
CAは確かに綺麗な振る舞いと接客をするが、あれをプライベートや営業でも同じように行うと問題があることに気が付いていない。(勿論全員ではない。)
彼女たちの振る舞いやマナーは確かに洗練されているのだが、正直言って「社会を生きる大半の人々にとっては細かいマナーなどどうでもいい」のだ。
背筋が伸びていて、物事に真摯に綺麗に取り組む。これくらいしか注目されることはない。
これ以上は一部のリベラル層を除いて「自己満足」にしかならないどころか、嫌悪感を示されることすらあるということだ。
人間関係を築くという行為において、細かなマナーなどより重要なことは幾らでもある。
といったところで紹介は以上とさせていただこう。
もしもこの本に完全に感化されてしまっている方がいたのであれば、是非以下の本を一読することをススメるとしよう。
〇中村久子「こころの手足」
〇村田沙耶香「生命式」
〇アモスオズ「私たちが正しい場所に花は咲かない」
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